目次前ページ次ページ

10 東大へ入学 開かれた、新しい世界や友人


湯河原の安井曽太郎画伯の別荘で
 受験日も間近になり、成績証明書を職員室に取りに行くと、2年の時の担任の矢島先生が「一校だけで大丈夫か。心配だから3通作っておいたから」と言った。
 「どこでもいいから、とにかく浪人はいやよ」
 母は4校分の受験費用を出してくれた。当時父は、日伯友好協会の会長だったので、失敗したらブラジルへ渡ってみようかなどと夢想していたので気は楽だった。
 そのころ、私は将来何になりたいという目標すらなかった。結果に将来を決めてもらおうと思ったのである。
 東京大学の文Vと早稲田大学の建築科を受験することに決め、上京した。
 東大受験の時は同級生の須沢春雄さんと一緒に、当時兄夫婦の住んでいた東京の家に泊まった。彼は秀才で、また努力家でもあった。受験前夜は、今さらジタバタしてもと、私は須沢さんを誘って映画を観に行き、帰りは初めてビアホールへ入った。
 翌朝、兄嫁が「須沢さん大丈夫?」と心配そうに聞いている。昨夜はずっと寝付かれずにいたらしかった。私の方は、ヒルデカルト・クネフの妖艶な姿態を夢見てぐっすり眠ってしまった。
 結果の発表は早稲田の方が早かった。接した教授が言った。
 「成績からすると奨学金が受けられるけれど、東大の方はどうだった?」
 「いえ、まだ」
 「今、発表になっているよ。見て来たら?受かっていたらやっぱり東大か?」
 東大の発表を見に行くと、私の番号はあったが、須沢さんの番号が見当たらない。私は申し訳なかったかなと思った。映画と酒に誘わなければ、こんなことにならなかったであろう。その後、須沢さんは信州大学の医学部に行かれ、現在は立派な医院を開業されている。各々にどっちが良かったなぞもうどうでもいい年にはなった。
 私は結局、早稲田の面接教授の言葉通りに権威主義に負けて東大に入学した。
 長兄の顕一夫婦の家には、衆議院議員の父が共に住んでいた。そこへ私も同居し、兄嫁に食事の用意をしてもらい、学校へ通った。東京のあちこちには、戦後の名残の店があり、友人たちと出かけることもしばしばだった。切符を持って行くと、食事のできる外食券食堂や恋文横丁の屋台など、松本では経験できないこととの出合いがうれしかった。
 ご飯は外食券で手に入る。テーブルの上には刻んだキャベツがどんぶりに盛られ、ご飯の上にそれらをのせてソースをかけて食べる。外食券があれば一銭もなくても腹がふくらむのだ。これは私にとってとても新しい発見だった。またニンニクの効いたギョウザの鮮烈なにおいも忘れることができない。
 昭和29年、旧制高校にいた人が新制大学へ横滑りで入れる最後のチャンスがあり、私たちのクラスにも大勢の人が入ってきた。共産党の地区委員あり、税関の役人あり、マージャンで生活していた人あり…こうした人たちも地方からぼっと出て来た私の前に新しい世界を開いてくれた。
 早稲田から横滑りに来たロシア語に堪能な人がいた。私は臼井先生に倣ってマヤコフスキーの詩を、その彼に刺激を受けてロシア語で読破するぞと講座に通ったりもした。しかし、目的は達成できず、今もマヤコフスキー全集とチェーホフ全集は書庫の奥に只眠ったままである。