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8 映画館通い カッコづけも多分・・・自分の世界


浅間温泉の生家
 朝、目が覚めて廊下を歩いていると見知らぬ人が「おはよう」といったり、寝る時も「おやすみなさい」と声をかけられたりの生活は、相変わらず中学2年になっても続いた。
 父は昭和23年、衆議院議員当選後2年目にして逓信大臣に就任した。吉田内閣の時だった。この時はさすがに家の中が騒然とし、一層知らない人も出入りするようになった。
 父は当時としては一番若くて大臣になったが、私はまわりほど感動しなかった。それは大臣病を貶(けな)し議会での活動に誇りを持っていた祖父のエピソードがあったからかもしれない。とは言え、後になって考えれば大したものであった。
 高校の受験が間近になった。学校では高校から就職するなら松商へ入って簿記などを習うのが有利という風潮だった。私の仲間の何人かはそのつもりになっていた。だが、私は仲間がバラバラになってしまうのが惜しくて仕方がなかった。そこで私は、みんなで深志高校に行こうよと説得して回った。それぞれの家庭の事情など考えず、勝手なやり方だったが、結局そういうことになってしまったのである。ところが、いざ試験になってみると、だれか一人でも失敗したらどうしようと心が震えた。が、結果は全員合格。この年は本郷村から深志高校へ通う生徒の数が例年を上回っているはずである。この時ほどうれしかったことはない。
 深志高校まで30分ほど歩いて通学したが、時には寝坊をして慌ててバスに飛び乗ることもあった。二、三カ月で学校に慣れると私は主に午前中だけ授業に出席した。さらに、運動部室で寝ている友人の代返をすることにもなった。そのかわり、午後は友人が私の代返をしてくれた。午後はたいてい映画を観に行った。運動部が資金稼ぎで売っていたアンパンを昼休みに食べると、映画館へ向かった。チケットは母の知り合いの演技座や開明座の奥さんたちから招待状をもらっていたので助かった。ところが、体育の時間は代返が効かず、出席時間の足りない分を高校野球の予選大会の応援で補うことができた。しかし、深志は一、二回戦で負けてしまうので、あまり時間稼ぎにはならなかったのは残念だった。
 映画はジャン・ルノワールの『大いなる幻影』などが印象に残っている。が、このころは映画そのものへの興味はもちろんのことだが、授業なんかまじめな顔をして聞いていられるかといった、エエカッコしもなきにしもあらずだった。また、映画館に入れば、顔を見られなくてすむこともよかった。小さい時から私は「徳弥さの息子」と言われることに抵抗を感じていた。私は私の世界で生きていきたいと思った。学校へ行っても町を歩いていても何かにつけ、「徳弥さの…」と言われることがイヤだった。
 そんな思いがだんだん積み重なり、いつの日か松本を早く離れたいという思いが、私の心の奥に芽生えたことは確かだった。
 映画が終わるころ、授業時間もちょうど終わり、家に戻る途中、テニスコートを通ると仲間がネットを張っている。そこでまた私は真っ暗くなるまでテニスに興じた。