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7 天皇行幸 議論の末バンザイ・敬礼なしに


上高地で両親たちと(右端本人)
 「朕と爾等国民との間の紐帯は…神話と伝説とによりて生ぜるものに非ず」と、天皇が自ら人間宣言を行ったのは昭和21年1月の詔書である。天皇は神様という国民の意識は次第に薄らいでいったが、敬愛の心は未だ根強いものがあった。
 戦後、天皇の行幸が始まり、松本にも来られることになった。本郷中学の生徒も天皇陛下を信州大学付近でお迎えするようにと、先生から話があった。ところが自治会で迎えに行く必要はないということが議決され、大騒ぎになった。天皇の行幸はめったにあるものではない。先生方は当然出迎えに行くことを決めていたので、かなり困惑しておられた。
 「もう一度、話し合おうじゃないか」
 先生方の申し入れで話し合いの場を持つことになった。その時、私は議長だったが、先生と生徒の間に立ってどうなることかと思った。夜の10時になっても結論が出ない。
 「自治会として迎えに行く必要はない。戦争の責任は天皇にある。そのような天皇を迎えに行くことはできない」
 「そんなことをすれば、えらいことになる」
 議論が白熱しているところへ、一人の生徒が手をあげた。
 「提案します」
 三才山から通っている柳沢亨さんだ。彼は私より一歳上である。
 「私たちは迎えには行きません。しかし、人間宣言をした天皇を見に行こうではありませんか。バンザイや敬礼はしないことにして、ただ見に行くだけにしてはどうですか」
 渡りに船とはまさにこのことだった。生徒たちの賛成の手があがった。その意見に先生たちもしぶしぶ納得して話し合いは終わった。
 いよいよ信州大学付近で、私たちは行幸を並んで待った。どこかでバンザイの声が聞こえたが、私たちは何も言わず、何もせず、ただ待った。するとオープンカーが、40kmの速さで通り過ぎた。あっという間のできごとだった。人々はまだ興奮にとらわれていた。その中で私たちが何時間かの討論の結果とった行為はだれの目にも止まらず、ただ立ち尽くすのみだった。
 後年、提案した柳沢さんと話す機会があった。
 「よく考えが浮かんだね」
 「僕は兄弟が10人もいるから、おかずを食べるのも闘いだった。その中できっと訓練されたんだろうね」
 柳沢さんは屈託なく笑った。
 行幸されたその夜、私はあれでよかったのだろうかと振り返った。それにしても学校のみんなで一晩だったけれど、天皇について真っ正面から考えたことはよかったと、一人納得したのだった。
 父は衆議院議員として月のほとんどを東京で過ごし、母も婦人会だ、同窓会だといって留守がちだった。夕食は祖母が用意してくれた。長兄は社会人となって東京に、次兄は東大の学生で寮に、それぞれが独立したような生活をしていたが、私は小さいころから慣れており、寂しくはなかった。小学生時代より友人も増えた。同級生の中野弘明さんや清水富之さん、川澄敏さんらが、野球やテニスのあと夕方になると私の家によく遊びに来た。私の家には温泉はあるし、もらい物のミカンやビールもあったので、カード遊びに興じて、夜の更けるのも忘れたものだ。