目次|前ページ|次ページ6 新制中学へ入学 占領軍から用具 野球漬け
9月には、長兄の顕一も戦地から無事に帰ってきた。私は家族がそろったことが、子供心にも何よりうれしかった。家族がそろったのはうれしいが、食料が不足し、母は買い出しに大変だった。北安曇郡の農家で米や野菜を分けてもらい、私たちの空腹を何とか補った。社交的な母は、買い出しに行った先の人たちとすぐに親しくなった。その人たちは後に、父の選挙の強力な支持者になってくれたのである。 終戦直後の浅間温泉は、占領軍の往来もあったが、満州からの引き揚げ者が大勢いて、活気にあふれていた。 昭和21年4月、48歳の父は、かつて翼賛選挙の際に立候補した民政党の流れをくむ進歩党から衆議院議員に立候補した。私はその時12歳。大人の人の出入りの中でただ右往左往した。子供の出番は無いのだなと、察した私は邪魔にならないように自分の部屋でじっとしていた。 無事に父は当選。喜びの渦のなかで私ももみくちゃになっていた。 選挙が終わったあと、土蔵には陣中見舞いにもらったドラム缶が2本残っていた。中は薬用のエチルアルコール。何か利用する方法はないかと考えた。 そういえば、私たちは勤労奉仕や校庭の菜園化のために放棄されたいろいろな薬品が、理科の実験室にあることを知っていた。酒石酸とサッカリンを水に溶かして作るサイダーは、私の得意作の一つであった。そこで思いついたのは、アルコールを加えたらもっとおいしくなるのではないかということだった。私は早速、学校の理科室の倉庫に行き、材料をそろえた。そこへ土蔵にあるエチルアルコールを加え、ちょっと洒落てバニラエッセンスを少々足した。即席シャンパンが出来上がった。私は近所の友達を呼んでそれらを飲んでみた。 「おいしいね」 「何だかいい気分になってきた」 それからしばらくたって、映画『ミスターロバーツ』で軍艦の中で酒を造る場面があり、この時はバニラエッセンスの代わりにヘアトニックを入れていた。私たちのつくった飲み物の方が、はるかに上等だったのではないかと思う。 昭和22年4月、本郷中学へ入学。ちょうど学校教育法が公布され、六三三制が実施された年でもある。新制中学誕生のお祝いとして、占領軍から野球道具一式が贈られた。そのころ野球といえばバットはキリの木の棒、ボールはぼろ布を糸で巻いて包んだものを使っていただけに、男子生徒の喜びようはなかった。 私たちは授業をそっちのけにして、朝からグラウンドとその道具の取り合いをやった。揚げ句の果て、理科室から実験用の電球とコードを持ち出し、校庭の桜の枝に張り巡らせてナイターの試合をした。これは何と後楽園のナイターに先立つこと一年。会社帰りの大人たちも立ち寄って応援してくれた。ところが、町の人たちの非難を浴びることになった。 「工場で電気が足りない時に、何ということだろう」 校長は青くなり、即刻中止。それっきりナイターは復活しなかった。 |