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5 新制中学へ入学 占領軍から用具 野球漬け


深志高校入学時
(本人は2列目の右から2人目)
 長兄の顕一は海軍で舞鶴に赴任していたが、母は一回、慰問に私を連れて出かけた。
 母の手作りの料理が入った重箱をふろ敷に包んで面会に行ったが、持ち帰りを命じられた。何でも前日、下痢をしたものが出たというのである。結局、手作りの料理は私たちが泊まった旅館のお手伝いさんたちが賞味するところとなった。
 次兄の正安は陸軍で千葉の海岸にいたようだが、機密とかで訪ねる術もなかった。その次兄が帰ってきたのは昭和20年8月11日だった。
 話によると、次兄の上官が故郷へ帰るように指示を出したということだった。母は兄の顔を見ながら「とても良い上官だったね」と、うれしそうだった。すでにそこには敗戦をとらえている空気が流れているような気がした。私はそれを何の違和感もなく聞いている自分に、変化したな、成長したなと感じるのだった。アメリカ軍の艦載機が私たちの町を飛ぶようになったのは、それから間もなくだった。
 「松本市内にいては、いつやられるかわからない。おばあちゃんを入山辺の霞山荘へ疎開させなさい」
 父の指示で祖母を連れて行くことになった。8月15日朝のことである。私は疎開していた従兄弟たちの面倒を見るために朝日村から来ていた女性と、従弟たちで祖母をリヤカーに乗せ、霞山荘へ向かった。半日かけてようやく着いたところで、天皇陛下の玉音放送を聞いた。が、よく聞こえなかった。日本が戦争に負けたということのようだった。
 とにかくその放送を聞いて、とっさに私と従弟が思い付いたことがある。日本が負けたとなると、北からソ連が上陸してくる。南からはアメリカがやってくる。そして境界線が引かれるだろう。
 もしも、本州の中央であるこの辺で線が引かれ、みんなと離ればなれになっては大変だ。ベルリン陥落の時の新聞記事が頭にあったことも確かだ。私たちはせっかく連れてきた祖母を、またリヤカーに乗せ、浅間の自宅に戻った。家の周辺では、敗戦と一億総玉砕の説が半々で乱れていた。それほど天皇の放送は国民によく聞き取れていなかったのだ。私は父や兄から「たとえ日本が負けても玉砕はないし、男は強制労働、女は云々などということにはなるはずがない」と聞いて、少し安心した。その時、私は11歳だった。二カ月後、占領軍が浅間温泉にやってきた。滞在先は、わが家の周辺の旅館だった。ほろをかぶせた占領軍のトラックが家の前にずらりと並んで止まっていた。私はほろの中をそっとのぞいて見た。荷台の床にグリーンの缶詰が一個転がっている。私はなんとはなしにそれを手にした。疎開してきていた従弟たちの部屋へ持って行き、食べてみるととてもおいしかった。乾パン、コンビーフ、バターなどが入っており、この世にこんな素晴らしい食べ物があるのかと驚いた。味をしめた私は、二度目は大胆にも一個ではなく一箱いただいた。思わず私は、日本は負けたが、私たちはアメリカに勝ったぞという気分になった。