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4 特攻隊、疎開者 ほっぺ赤くない東京の女の子


国小学校3年のころ母と
朝日村で住職をされていた密波羅先生は、すでに何かを感じておられたのだろうか。
 「サイパンが陥落したことは知っているだろう。君は家で耳にしているかもしれないが、サイパンからだと敵の爆撃機が楽々本土にやって来れる。日本は戦争に負けるよ。こんなことは授業では言えないけれどね」
 少年兵志願への機運をさますための話だということは、子供心に察せられた。私は先生のようにものを考えられる人がいるということに、新たな目を開かされたのだ。
 そんな先生の話を聞いて半年ほどたったころ、隣家の「井筒の湯」に大勢の特攻隊がやって来た。
 私は友達といつも「井筒の湯」の前で軍艦ごっこをやり、庭にも侵入してよく遊んでいた。若い兵士が行ったり来たりしていても、お構いなしに庭で遊んでいると、「ちょっとおいで」と兵士に呼ばれた。
 「これ、食べたことあるかい?」
 チョコレートだった。桃の缶詰も切ってくれた。そして私たちに諭すように言うのだ。
 「君たちは志願して兵隊になってはいけないよ。国のためだったら、兵隊でなくてもできるからね」
 「兵隊さんはどうして戦争に行くの」
私の生意気な反問に、
 「我々は国の礎になるんだよ。その礎の上で君たちがしっかり生きてくれればいいんだ。頼んだよ」と言った。澄んだ目がいつまでも私を見つめていた。
 特攻隊は20歳から22歳の人たちがほとんどで、若い命を生身のまま敵陣へ注いでいった。
 私たちと話をした翌日、「井筒の湯」の庭の上すれすれに低空飛行していく特攻隊の姿を私は見た。
 白いマフラーをなびかせて手を振るのがよく見えた。「井筒の湯」の窓からは芸者さんや仲居さんたちも手を振っていた。
 私たちは手を振りながら、若い兵士の言葉を何度も何度も思い出していた。
 そのころ、浅間温泉には東京から疎開している人たちが大勢いた。私の家には父の弟の家族5、6人が疎開していた。銭湯に不自由している人たちが、松本の市街地の方からも入りに来た。あまりに多くの人が利用して、ふろの湯はミルクのようになったほどだ。
 学校には、東京から集団疎開している子供も大勢いた。クラスに17、18人ほどいたが、そのために一種のカルチャーショックのようなものがあった気がする。どの子も小ぎれいにしていて、鼻水を垂らしている子など全くいなかった。服装やしゃべり方も違い、女の子の髪の結い方もしゃれていた。行動も軽やかで、村の習慣にとらわれず、生き生きしていた。私はそんな生き方もあるんだなと、ひそかにうらやましいとさえ思った。
 なにしろ、私のまわりの女の子たちは頬がいつも真っ赤だったが、東京から来た女の子はだれも白いふっくらした頬をしていた。私にはまるで外国人に見えて仕方なかった。ほっぺの赤くない日本人がいるなんて、とても私には考えられないことだった。