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3 太平洋戦争勃発 白米おむすび楽しみに勤労奉仕


国民学校入学のころ、
母(右)とトモちゃんと
10歳以上も年の違う兄たちのいたお陰で、字の読み書きがある程度できていた。背丈もクラスで一番大きかった。
 「これ読んでくれよ」
 腕白な少年たちは、字が読めずに困ると私のところへやってきた。家の中には兄たちの本もあり乱読した。面白いと思うと、それを次から次へ貸すのだった。学校でいじめられるどころか頼もしがられた。講談社の絵本『曽我兄弟』からさらに少年講談へと進んでいった。考えてみれば、我が家は体のいい貸本屋というところだったろうか。
 私は学校ではそれほど勉強らしい勉強はしなかった。ただスタートがみんなより早かったため、勉強のできる、頼もしい子供と受け取られたように思う。
 昭和16年12月8日。日本軍が真珠湾を攻撃。この日は朝から全校生が講堂に並び、校長の話を聞いた。
 宣戦布告の勅諭を校長が読み上げた時、だれかが垂れている鼻汁をぐぐっと吸う音がした。

 その時である。担任の温厚な先生が走り寄ってきて、彼の頬をピッシャっとたたいた。私はびっくりした。一瞬、なぜたたかれたのか分からなかった。戦争とはこういうことなんだと、私は自分の頬をそっとなでながら思った。
 家に帰ると、相変わらず知らない人たちが、廊下を行ったり来たりしていた。玄関の土間を突き抜けたところの部屋には母方の祖母が、奥の隠居所の棟には父方の祖母がいた。私は奥の部屋まではあまり行くことはなく、学校から帰るとすぐに母方の祖母のところへ行った。
 「ただいま」
 父は長野市へ出かけていて留守、母も松本市街へ出かけて留守のことが多かった。おやつはたいてい母方の祖母が用意していた。
 ある日、私が台所の食器棚を開けてみると、何やら小さな缶があった。そっと開けてみると白いミルクが入っている。ちょっとなめると甘い。少しずつなめているうちに全部たいらげてしまった。
 そこへ母が外出先から帰宅。私の様子を見ると、何をしていたか察しがついたらしい。
 「せっかく私が取っておいたコンデンスミルクを!」
 母の怒りようはなかった。太平洋戦争もどんどん激しくなってきた。長兄の顕一は京都大学へ行っていたが、学徒動員で海軍へ。次兄の安正は麻績で代用教員をしていたが、招集されて陸軍へ、それぞれ赴いていた。
 私たちは勤労奉仕で農家の手伝いに行った。農家では息子たちが戦争に行っており、ほとんど年寄りや女性ばかりが携わっていた。私たちは田起こしや田植えなどを手伝ったが、想像以上の肉体労働だった。しかし、農作業のあとに配られる白米のおむすびが何よりの楽しみだった。赤ちゃんの頭ほどある大きなおむすびにかぶりついた時の幸福感は、何にも代えがたかった。
 今思えば、勤労奉仕がなければ一生やらなかった仕事を、ほんのちょっとだったが経験できた。これこそかけがえのないことだった。
 昭和19年7月、サイパンが陥落。私は10歳、4年生だった。放課後、校庭を歩いていると3年生の時の担任、密波羅風文先生にばったり出会った。
 「降旗君、ちょっと来ないか」
 先生は小さな声で私を校舎の陰へ招いた。