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1浅間温泉街で 幼少の記憶 政治家の父の不在


2歳のころ母と(自宅縁側で)
 およそ400年前にひらかれたという浅間温泉。かって東筑摩郡本郷村といわれたところだ。
 浅間温泉のほとんどの旅館は、夏の間は蚕種の製造をしながら生活していた。私の生家も昔は屋号を「金田屋」といい、蚕種の製造業を営んでいた。
 現在も浅間温泉街の中央に400坪の敷地に本棟造りの二階建て一棟、養蚕用の二階建て一棟、浴場一棟、隠居所一棟がある。祖父の代には、家のまわりにかなり広大な土地があったという。
 祖父の元太郎は、蚕種の普及の第一線に立ち、家業のかたわら衆議院議員、信濃日報社長などを務め、先進的な思想を持っていた。
 父徳弥は元太郎の長男である。金弥、英弥という弟二人と妹安子がいたが、特に男の兄弟たちは元太郎を助け、親孝行だった。父は早稲田大学を卒業すると同時に本町の茶商の娘、松代と結婚。「大阪モスリン」に就職して生活のスタートを切った。
 長男顕一、次兄正安が誕生して数年後祖父が亡くなり、父は信濃日報の副社長になった。しかし、祖父にはかなりの借財があり、それを返すため父は相当の苦労をした。結局、家のまわりの広大な土地を売り、ようやく清算することができた。祖父は人のために惜しまず金を使い、会社経営もかなり困難だったらしい。
 父が借財返済に奔走していた1934(昭和9)年8月、私は三男として誕生した。すでに長兄は12歳、次兄は10歳だった。
 父は祖父のすべての負債を清算した昭和10年、県会議員選挙に立候補し当選した。政治家としての第一歩を踏み出したのだ。
 父は使命感に燃えていたのだろうか。常に県政を思い、自宅でくつろぐことが次第になくなっていった。従って私は幼い時から、家で父の姿を見た記憶がほとんどない。しかし、父はいなくてもなぜか他人がよく出入りしていた。家の廊下で「こんにちは」と言われて、あの人はだれだったろうと思うことはしょっちゅうだった。二人の兄たちとは年が離れていたので、一緒に遊ぶことはあまりなかった。男の子も近所にはいなかったので、もっぱら家の中で兄たちの読み終わった童話や絵本を読んだり、知らず知らずのうちに字も覚えた。
 ただ、すぐ近所の徳田都子ちゃんとはよく遊んだ。おはじきやお手玉など女の子の遊ぶようなことばかり。そのころの私は、遊びはこういうものだと思っていた。
 同じ年だった都子ちゃんのお父さんは日本画家で、いつも家にいた。私の顔を見ると、「さ、遊びに行こう」と外へ連れていってくれた。また、都子ちゃんの家にはそのお父さんの妹(徳田知子)さんもいて、私は「トモちゃん」と呼んでいた。トモちゃんも都子ちゃんと一緒に私をよく遊びに連れていってくれたが、私はひそかにあこがれていたかもしれない。
 私たちが外で遊んでいると、どかどかと警察官がやって来た。私は何事が起きたのかと、警察官の後をついて行ってみると、何と私の家へ入っていった。