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13 加藤静一先生 アラブとの友好に努めた日々


加藤先生(左)たちとアラブ諸国へ
 松本には文化人と称する人が多い。その中でも私が尊敬し親しくしていた人に元信州大学長の加藤静一先生がいる。
 戦後まもなく、私が仕事で東京に行った帰りの列車の中で、席が隣だったことが加藤先生との出会いだった。当時、新宿と松本の間の所要時間は9時間。その間先生といろいろな話をした。私は先生のひょうひょうとした話しぶりや考えにたちまち虜になった。
 「先生、困っていることがあったら何でも言ってくださいよ」
 「いやあ、実は米がなくてね、申し訳ないが…何とかならないかね」
 私は松本に着くとすぐ家に米を届けた。先生はとても喜んで「何か困ったら言ってきて下さい」と、今度は先生に言われた。
 私は何も困ることはなかったが、以来先生と話をすることが面白くて、次第に先生と会うのが楽しみになった。どこへ行くにも先生と私は一緒だった。妻は「金魚のフンみたい」と笑ったが、私は加藤先生や、その先生の周りの人たちと出会うことによって、多くの素晴らしい心の栄養を得ることができた。
 昭和48年、オイルショックで日本政府はアラブ支持を明確にし、アラブをもっと理解しようというキャンペーンが行われた。その折り、「我々も民間サイドで友好を進めようじゃないか」と加藤先生が提案。長野アラブ友好協会を先生と一緒に設立した。会長は加藤先生、副会長に北野建設の北野幾造副社長。黒田現松本タウン情報編集長ら20人が集まった。
 アラブの写真展や子どもたちの絵画交換、アラブ連盟東京代表らの講演会などの事業を続け、視察に行こうということになった。チュニジア、ヨルダン、シリア、クウェートへ出かけ、友好を図った。さらにアラブの駐日大使を松本などに何回か呼び、私たち会員は市長や県知事のところへ案内するなど大勢の人に認識してもらおうと努力した。
 しかし、加藤先生が平成2年に亡くなり、その後は友好協会の活動もすっかり鈍ってしまった。このほかの加藤先生と一緒に作ったグループも自然に解散していった。やはり人間は生きていなければ、とつくづく思った。
 加藤先生のいない松本の街が潤いのないつまらない風景に見え、しばらく人と会うのもつらかった。その後体調を崩して入院などをしたが、現在は回復し両親が残してくれた女鳥羽の自宅で生活している。
 縄手通りの中劇にもほとんど顔を出さず、長男が幸いにして中心になりやっているので、報告を聞きながらアドバイスをしている。
 映画界は不振と言われて久しい。現に映画館を閉じるところもあるが、私はニーズに応じたやり方によってはいくらでも発展すると思う。映画は何といっても総合芸術だ。音楽、美術、文学などあらゆるものが取り入れられて一つの作品が完成する。
 娯楽は確かに時代とともに多様化している。しかし、映画は消えることはないだろう。
 私の育った藤本百貨店は見事に映画館になって50年が過ぎた。縄手通りも多少変わったが、行き交う人の心は変わっていないように思う。縄手通りを愛する人はどんなに多いことか。
 最近人と会う機会が少なく、どうしているかと言う人が多いが、私は元気である。こうして半生を振り返ると、記憶違いもあったかも知れないが、私は素晴らしい人たちに恵まれたと心から思う。元気でいる限り、多くの人とこれからも出会っていきたいものである。