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12 見えた光明 洋画に関心 自らも“種まき”


松本市芸術文化功労賞の受賞記念(左から4人目)
 東京オリンピックが始まるころ、東宝では小林桂樹のサラリーマンものや加山雄三の青春もの、東映では高倉健の任侠もの、大映は若尾文子や京マチ子など女優の活躍、日活では石原裕次郎や吉永小百合の青春ものが人気を博したが、日本映画の観客総数は昭和34年の全盛期に比べて半減となった。
 それはテレビの普及もあったが、実は洋画への関心がじわじわと高まりつつあったのだ。アメリカ映画の良いものがどんどん入り、中劇は明るい兆しを見せはじめた。「クレオパトラ」「戦争と平和」など莫大な制作費をかけた映画が公開され、私はそれらを見て洋画は世界中がマーケットなんだ、規模が根本的に違うと思った。洋画に切り替えてよかった−。
 松本市の青年団の会合や公民館活動の中で映画の話をしてほしいと頼まれるようになり、私は映画の資料やレコードを持って話に行った。会場では多くの青年や公民館活動をしている人たちが目を輝かせて私の話を聞いてくれた。こうした感触から私は映画は決してすたれることはないと確信した。
 昭和42年ころ、松竹系の映画を上映していた開明座さんから隣に新築してあったピカデリーを中劇と合併してほしい依頼された。私は合併することに同意、それから10年余一緒に仕事をした。昭和55年には再びお互いに独立し、洋画を今も上映している。
 戦後学校教育の一環として子供たちに劇場で映画を見せる時間が持たれたことは、確かに私どもにとっても有り難かった。それは昭和50年代まで続いたが、最近では交通事情の影響で先生方が引率してくることが危険と判断、自然に廃止になったのは寂しいことだ。
 私は「靴が売れれば靴下も売れる」ことを信じながら今日まで来ている。この言葉は一見映画とは何の関わりがないと思われるが、必ずどこかで結び付いてくる。例えば、いつだったか、信州大学の教室が全焼したとき、私も復興を応援した。この時、早く信州大学が正常に戻れば学生も平常になり、映画を見る時間が早く来るだろうという思いがあった。
 もちろんすべて商売に結び付けてもうけるために動いているわけではないが、私は映画文化を守りたい一心からいろいろなことをやってきた。
 もう一つ私はじっとしていることが嫌いである。何かやっていなければ気が済まない性分で、何かやろうと声を掛けられれば率先してやった。
 昭和33年、初めてロータリークラブができたときも、できる限りの力を注いだ。名古屋の松阪屋の伊藤次郎左衛門社長が松本商工会議所に話を持ってきたことが最初だった。石川島工業の青木さん、アルプスシャツの渡辺さん、松本日産の坂井さんなどとともに参加したが、この出会いが映画界の人たちとは違った世界を知るよい機会となった。
 父は昭和44年に79歳で、母は昭和56年に他界したが、妻の雅子は私が独立プロに関係したり、映画の話を全国にしてまわって家を留守にしても、この両親の面倒をよく見てくれたと思う。
 昭和52年、私は松本市芸術文化功労賞に推されたが、晴れがましいことが苦手で戸惑ってしまった。しかし、地味ながらも私の歩いてきた道を認めて下さったのだと、率直に受けとめて表彰式に臨んだ。