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11 新しい映画館 興行マニュアル作り全国回る


サネサロンができたころ
 池田三四郎さんから譲り受けた格納庫を利用しての映画館も、寿命が来て建て直すことになった。時は昭和35年になっていた。
 私は映画監督山本薩夫氏とも親しくしていたが、新しく劇場を建て直すことを話すと、監督は
 「弟の山本勝巳は設計士なので使ってくれないか」と言った。
 「いいどこじゃない、お願いしますよ」
 私は監督を全面的に信頼していたので、お願いした。山本勝巳氏は俳優の山本学や山本圭の父親である。この時私は劇場と隣接したシネサロンをつくることを計画、実施した。シネサロンは日本では初めてのもので、朝日ジャーナルのグラビアにも掲載され話題になった。
 新しく劇場ができたころには世の中の人たちの洋画への関心も高まり、観客も増えたが、昔ほどではなかった。
 洋画人口を増やすためには、映画館の経営者の姿勢も大切である。私は映画勧進帳をつくり、それを持って全国の映画館を回った。上映権利金やフィルムの購入方法などを自分で作ったマニュアルノートが勧進帳だ。映画興行は水物でカンに頼らず、計画を立てて興行することだ。私の話を聞いた地方の映画館主は「不安が解消した」と喜び、自信を持って経営に臨んだという。
 一方、私は私で観客増加のための努力を惜しまなかった。「戦場にかける橋」の上映の時は、縄手通りの前の女鳥羽川に実際に木橋を架け、通る人の目を引いた。が、残念ながら期待したほどの効果はなかった。
 映画館経営だけでは将来の道は、どうやら暗いと考えた。他の商売も平行してやった方がいいのではないか。妻と母も同じようなことを考えたらしく、彼女たちは中劇の裏の一角で『立花屋』という質屋を開き、結構繁盛させていた。
 場所柄、縄手の露天商の人たちが雨が降ると商売ができずにお金を借りに来たり、自衛隊の駐屯地の人たちもすてきなカバンや靴を質に入れてくれたりして、店も助かった。ただ、質屋については妻と母のやりだしたことなので、私はあまり関知しなかった。
 私の方は、友人が持っていた浅間温泉の土地を売ってもらい、そこへホテルとボウリング場を建設、私が昭和
38年以来関係していた第一観光株式会社の経営とした。社長は渡辺喜十郎氏、私は取締役になった。渡辺さんとはロータリークラブが一緒で何でも話せる仲だった。
 ホテルの名はウェストン。上高地を開拓した英国の牧師ウェストン氏の名前から付けた。私は名前を付ける前に遺族へ手紙を出した。
 「このたびは新しく建設したホテルの名前に、ウェストン氏の名をいただきたくよろしく」
 しかし、今日まで何の返事もない。恐らく了解してくれているのだろう。
 ボウリング場は、折からのブームで大繁盛。開店して間もなくプロの中山律子さんを迎えて招待試合をした。
 その後、今度はドライブインをやろうということになり、日本中のドライブインを見て回り、自分なりの絵を描いた。島内の国道19号沿いに「松本ドライブイン」を建設。小さな遊園地を併設したが、これも松本では珍しいものとなった。
 映画館以外はどの商売も順調だった。しかし、私の専門はやはり映画だ。いったいこれから本当にどうなるやらと不安は募るばかりだった。