目次前ページ次ページ

10 洋画に転換 看板やテレビ 観客動員に苦心


自作の映画看板を掲げて
 中劇の2階は映画友の会のメンバーだけではなく、いろいろな人が出入りしていた。皮膚科医の徳田安儀さんは松本芸術協会を設立したが、その会員たちは何か話があるといっては集まった。緑町の飯沼瑛さんも映画が好きで、集まってきた人たちと夜明けまで話をしていたし、私が今井正さんの撮影についていっている間など、千葉まで映画のフィルムを取りに行ってくれたものだった。
 NHKの田畑彦衛門さんも独身で赴任していたので、食事はほとんど中劇で食べていた。三重県出身の彼は、帰省すると松阪の牛肉をわが家に送ってきた。
 「あの牛肉はミルクのような味だったわね」
 時折、妻は思い出してそんなことを言う。それにしても多くの人が出入りし、食事や酒を飲むことができたのは、妻の理解と協力があったからこそと思う。
 昭和30年、東宝との契約が切れ、洋画を上映することになった。しかし、日本映画の華やかな時で、洋画を見る人は少なく、あれほど立ち見席も出るほどにぎやかだったわが映画館の客足はピタッと止まってしまった。
 「望郷」「終会議は踊る」など、戦前輸入禁止だった映画を上映したが、松本では残念ながら流行しなかった。
 イタリアのロベルトロッセリーニ監督の「くつみがき」という映画の時は一日に3人しか入らない日もあった。しかし、始めての天然色映画「シベリア物語」は大ヒット、映画興行はなかなか予想通りにはいかないものである。
 そうはいっても観客動員は考えなければならない。思案したあげく大きな看板を掲げた。
 「芸術を理解しないものは入らないでください」
 私は逆手を使ったが、それでも効果はなかった。何とか手をかえ品をかえてやったが、お客の数は回復しなかった。そこで映画のあとにパーティーをやったら、と考えた。特にクリスマスの日などは入るのではないかと実行した。この企画は結構受け入れられてお客を呼ぶことができた。
 パーティーの企画のあとは、さて何にしようかと思案した。昭和32年ころ、まだ珍しいテレビをロビーに置くことにし、そのテレビはアメリカから直輸入した遠距離用のものだった。東京からの電波はなかなかキャッチできずに、点々と雪が降るような画面だった。
 それでもテレビは珍しく、映画館の入場券を払ってみんな見に来た。私は「これはしめた!」と思ったが、肝心の映画は見てくれず、プロレス中継に人気があった。力道山をうっすらと映る画面に向かって応援し、中継が終わるとサッサと映画館を出ていく人が多かった。私は何だかうれしいやら寂しいやら、正直なところがっかりしたのであった。
 だが、私はあきらめなかった。あちこちの掲示板や電柱にポスターをはって回り、洋画をアピールした。時にはよその映画館の電柱とは知らずに、わが中劇のポスターをはって大いにしかられたこともあった。
 しばらく洋画の上映は収入につながらず、経営はとても苦しかった。