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9 映画友の会 夢に向かう熊井氏ら見守って


仲人を努めた今井正氏の結婚式
(同夫妻を挟み右から5人目の私と妻)
今井正氏を訪ねてきた青年は、青年俳優研究所の紹介状を持ってやってきた。
 「俳優になりたい」という。今井氏は私に言った。
 「藤本君、会ってやってくれ」
 地味な男で体格も小さい青年だった。俳優業も肉体労働だ。果たしてやれるか心配だったが、目を見ると何かを訴えているようだった。
 「今井さん、いいじゃないかね」と私は推した。その青年が木村功であった。早速「山びこ学校」の主役に採用され、その後、今井さんの多くの作品に出演し、人気を博したのであった。
 今井氏は映画監督といっても生活は苦しいようだった。奥さんが廃品回収をしながら家計を助けていたが、その奥さんに好きな人ができてしまい、今井氏は40歳の時に離婚。男手で5人の子供を育てていた。
 大変だろう、と私は見合いの席を設けた。ちょうど「ここに泉あり」という映画の舞台あいさつで松本に来た時である。
 相手は鯛萬で働いている女性で、見合いの席も鯛萬だった。ところがたまたまお茶を出した同じ職場の女性に一目ぼれして、その人を嫁にということになった。中村ツヤさんという名だった。
 彼女は二人の子持ちの、いわゆる未婚の母だったが、今井氏はぜひ来てほしいときかなかった。自分の子供も合わせて7人の子供を育てるからと、ツヤさんに結婚を申し込み、私と妻は仲人をつとめたのだった。
 長野県下の中学校や女学校に、映画観賞の活動組織として映画部ができたのは戦後すぐだった。旧制松高の映画部には岡村博夫氏や小松健男氏、熊井啓氏らがいたが、やがて「松本学生映画連盟」を結成、その延長上に「松本映画友の会」ができた。昭和26年ごろだ。
 一本でも多くの優秀映画に接する機会をつくり、理解を深め、鑑賞眼を高めようというものだった。機関誌も発行、そこへ木村雅英氏(現県カルチャーセンター講師)も参加、「どっこい生きている」の上映の時は、この友の会が絶大な応援をした。
 松本中劇の2階は板の間で、ここに映画友の会のメンバーがよく出入りしていた。私はこの部屋にだれがいつ来てもいいように酒やスルメをいつも用意しておいた。
 熊井啓さんは、いつも寝ころんで酒を飲んでいるだけで、人に命令することが上手で、東京から映画監督が松本に来るというと出て行った。私は「熊井君はいい格好するだけ」と思ったが、将来の夢は映画監督と聞いて、うなずくものがあった。
 映画監督の成瀬巳喜男さんが美ケ原を舞台にした「春のめざめ」を撮りに来た時も、毎日のように手伝いに行っていたのも熊井さんだった。
 「きけわだつみの声」の映画化のとき、助監督を志願した熊井さんは、関川秀雄監督のもとで学び、描いた夢に一歩一歩近付いているのではないかと、そばで見ていてうれしかった。
 一方、鶴林堂の小松健男氏も映画監督になる夢を持っていた。私が「どっこい生きている」の撮影を見に連れていったところ、「映画づくりはこんなにも大変なんですね」と言って、それっきり映画監督になる夢は捨て、東京大学へ進学したのであった。