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8 今井正監督 「良い映画を」独立プロに協力


今井正監督を松本に迎える(前列右本人)
 私は市会議員の選挙に立候補したことがある。昭和23年、旧満州から引き揚げてきた妻の叔父に選挙に出ないかと勧められ、東町から出た。選挙の「せ」の字も知らないままに、街頭演説をしたり、周りから頭を下げさえすればいいと言われてその通りにやった。
 同じ町内の中日新聞松本支局の関係者が親身になって応援してくれたことがうれしかった。あとは、あてにしていた友達は、いざとなると逃げていくし、「選挙は人の裏を見せてくれるものだ」と、つくづく情けなく思った。
 結果は落選。
 それ以来選挙にかかわることはやめた。
 私は人の世話をして見返りなど考えたことはない。しかし人の恩を受けたときは、身を粉にしてもお返ししたいと思う。
 私は選挙でお世話になった中日新聞松本支局には何とか恩を返そうと思った。それには新聞の読者を増やすことだと販売店を引き受けた。松本周辺の部数は3000部だったが、その部数を伸ばすためにはどうすればいいか。いい案が浮かんだ。読者に月一回の映画招待券を付けた。するとたちまち1万2000部に増えた。午前4時に起床し、貨車で着く新聞を松本駅まで取りに行き、それからアルバイトの学生や高齢者の人たちのところまで持って行き、配達を頼んだ。
 今では考えられないことだが、毎朝のことで大変だった。特に雪の日は泣きたくなった。1万2000部という驚異的な数字を上げたことによって私は名古屋の本社に招かれ、おいしいご馳走をいただいた。この新聞販売店は、最初に1年半の約束をしてあったので、その時が来るときっぱりとやめた。
 東宝のストライキのあと失業した映画監督やカメラマンが続出。それらの人たちだけの映画を作ろうと独立プロができたのは昭和25年だった。今井正氏や今村昌平氏、山本薩夫氏などが名を連ね、私もフィルムを買うために東宝撮影所に出入りしていたので、協力できることは協力しようと思った。
 特に私は今井正氏と気が合い、松本でもよく酒を飲んだ。そんな縁もあって、独立プロの映画制作についてまわった。映画作りは何といっても金がかかり、50万や100万はあっという間に使われた。良い映画を作ってもらおうと、私は50万円、時には100万円出したこともあった。
 今井正氏は「青い山脈」や「また逢う日まで」「山びこ学校」など評判の高い作品を撮っていた。昭和26年に「どっこい生きている」を撮影することになったが、この作品は日雇い労働者を描いた作品で、キャストは前進座の人たちだった。河原崎長十郎や国太郎、中村翫右衛門ら豪華メンバーだったが、この時は資金がかなり集まりうれしかった。
 私は松本や東京など知っている人たちに声をかけて協力した。何よりも今井氏が喜び、私を心から信頼してくれることになった。
 だんだん付き合っていくうちに、今井氏に代わって新人の俳優の面接も頼まれることがあった。そんなある日、一人の青年が今井氏を訪ねてきた。その日は大宮で撮影中で、今井氏はとても人と会っている暇はなかった。