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7 鈴木鎮一氏の演奏 仲間で盛り立て「音楽院」創設


神田さん(最後列右端)と知り合ったころ、信大の学生と
(右端熊井啓氏、前列右から5人目本人)
 終戦直後の日本は食糧難にあえぎ、闇市にたむろする人たちでいっぱいだった。明日への希望もない時代だったが、年月を経ることによって、徐々に穏やかな生活を取り戻すことができた。
 人々は娯楽の一つとして映画をよく見るようになった。おかげで中劇には多くの観客が訪れた。「青い山脈」や「また逢う日まで」などの話題作が次から次と生まれたこともあったが、一日3回の上映はどれも立ち見席が出るほどだった。
 そのころの立ち見というのは、座席の間にむしろを敷いたものだったが、それでもお客はじっと座って熱心に見てくれたのである。
 順調な映画館の運営で生活にもゆとりが生まれるようになった。そうなると精神的にもゆとりが生まれた。
 仕事の合間に緑町や本町、上土の商店主の人たちとお酒を酌み交わすことも多くなった。
 緑町で喫茶店をしながらバイオリンを売っていた神田平四郎さんのところへ行くと、伊勢町の魚問屋の渡辺幾太郎さんや上土の眼鏡店の能勢豊さんも来ており、音楽の話をするのが楽しみだった。
 ある日、神田さんが「ウチの店先で、ひょいとバイオリンを持ったかと思うとヒュルヒュルといい音を出した人がいて、その人が名古屋でコンサートをやるというんだ。聴きに行かないか」と、私たちを誘った。
 私もクラシックが好きだったので「よし行こう」と二つ返事。“生”の演奏はさすがに素晴らしかった。
 「実はあの人は鈴木鎮一さんというんだが、松本で教室を開きたいと言っている。協力してくれないか」
 帰りの電車の中で神田さんがそう言った。
 「それはいいことだ。協力しよう」
 私たちは一致した。松本に帰ると能勢さんは教室の場所を探した。神田さんは生徒を、私は鈴木先生の生活を、渡辺さんは全体のまとめを、それぞれ分担して創設の準備に取り掛かった。
 「裏町の芸妓組合の見番が空いているから、そこを使ったらどうだろう」
 昭和21年、裏町に松本音楽院が誕生したのである。鈴木先生にはバイオリンだけをやっていただくように、私は給料の工面をした。まだ生徒の月謝だけでは足りなかったのでいくらかお手伝いもした。ただ私たち3人は、深志公園に才能教育会館が建てられたころには自然に手を引いた。
 一方、東宝では昭和23年、戦車も出動するほどの大きなストライキがあった。原因は戦後、アメリカ文化行政の担当者が演劇や映画の在り方を規制、それらに東宝の従業員たちが怒ったのである。
 翌年には共産主義者とその同調者を職場から追放するレッドパージが行われた。同じ年、前進座の団員全員が共産党に入党。私も前進座と交流があったので、警官に尾行されることになった。どこに行っても背後に警官の足音を聞いたが、あまり気持ちの良いものではなかった。
 私は「赤」と呼ばれようとも、自分が正しいと思うことは率先してやった。困っている人がいれば、どんな場合でも協力を惜しまなかった。