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6 「中劇」開館 初上映は「わが青春に悔なし」


中劇の裏の部屋で
 農地は今町や岡宮神社あたりに祖父や父が持っていた。農業をするために縄手の元百貨店はそのままにして、家族で岡の宮に住んだ。
 戦後の日本は食料不足で大変だったが、わが家はその難は免れた。戦前に母がカンを働かせて、食堂で仕入れたものや衣料品を保管してあった。カニ缶、ココア、砂糖などが縄手の建物の中に山積みされてあった。特に砂糖の有り難かった時代。農家に持っていくとたくさんの米やジャガ芋と交換してくれた。
 そうはいっても私たちは家族総動員で麦や野菜、サツマ芋を作った。ただ、にわか農業なので専業農家のように朝早くから仕事をせず、周りの人たちから「藤本さんのところは、いつ農業をやるだね」と言われたことがあった。
 「夏は暑いから麦は夕方刈って扱ぐだよ」
 何と言われようと私たちはマイペースだった。収穫したものは、家族で食べて出荷することはなかった。余れば友人たちに配り、時には友人たちを呼んで食事をした。
 昭和21年、金融緊急措置令(新円切替)が発令され、銀行に預けてあったお金は封鎖、金の価値も変わった。当時父は手元に現金45万円をもっていたが、無駄遣いをせずにみんなで質素に生活した。また祖父の代から鎌田や沢村にも広大な土地を持っていたが、小作人に安く売り渡した。東京・吉祥寺の家は、空襲で焼け出された叔父にあげてしまった。人のいい父を見ていて、私は少し心配だったが、そんな父が好きだった。
 そこへ呉服屋の池田六衛さんが「映画館をやらないか」と言ってきた。父は「もう商売はやりたくない」と答えた。
 「弟の池田三四郎が、飛行機の格納庫を壊すのでその材料を使って造らないか」というのだ。
 父は百貨店を壊すことにも躊躇した。3日間は眠れなかったという。
 しかし、父は映画を見ることが好きだったので「自分でやってみるのも面白いのでは」という思いになった。
 早速、百貨店を壊し、格納庫を使っての映画館建築が始まった。設計も池田三四郎さんの世話で軍の友人という人がやった。話があって一年足らずで完成。当時のお金で25万円かかった。
 映画館の名前は『松本中劇』と父がつけた。それは松本中央劇場を略してつけたもので、東京に『東劇』があることからもその名に因んだ。
 昭和21年11月、いよいよこけら落としである。最初は東宝映画と契約。上映映画は『わが青春に悔なし』。入場料は20円だった。東京の東宝から支配人が派遣されてきて、私はその人と一緒に仕事をしながら、映画館の経営を学んだ。
 間もなく専属の支配人には、経験豊かな岩尾重人さんが来てくれるようになり助かった。
 当時、松本には映画館がセントラル座、演伎座、中劇があり、少したってから松本大映、開明座ができた。
 この年、東宝ではニューフェースと称して三船敏郎や久我美子がデビューしたのであった。