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5 厚生課の仕事 映画や演劇で社員の士気高め


宮田製作所の同僚と(中央右)
 軍事一色だった昭和18年。周りの男たちは軍人を志願、または召集され軍隊へ行く人が多かったが、私は行きたくなかった。兄が戦死したあと、私が親を見なければだれが見るのだという思いが強かった。
 就職した宮田製作所では、軍用機の車軸(オレオ)を軍の命令で作っていた。工員は150人くらいいた。
 私は厚生課に配属され給料は100円だった。仕事は、工員の生活全般について面倒をみることで、物資の配給や手配など神経を使うことが多かった。たとえば米の配給をどうするか、炊事の当番はだれがするのか、夜勤の人のすいとんはどう作るか、10人の厚生課員では目が回るほど忙しかった。
 工員の士気を高めるため芝居や映画を見せたり、音楽を聴かせたりその準備にも追われた。みんな外に行くことができなかったので、製作所の講堂でそれらを実施した。一カ月に2回の割合で映画や演劇などの計画を立てなければならず、一つ終わると次は何にしようかと、迷うこともしばしばだった。
 今月は流行歌で行くかクラシックにするか、演劇は歌舞伎で行くか、宝塚にするか…。音楽関係は主としてNHKに派遣してもらったが、演劇となると直接上京して交渉した。
 当時は慰問が盛んで有名な歌手や俳優たちがやって来た。水の江滝子が来たときは、さすがに緊張した。スラリと伸びた足、笑顔などが印象に残っている。時には家族も招待されたが、ギャラは全て製作所が払った。実際には陸軍の管轄にあったので国が払ったことになるだろうか。
 ちょうどそのころ、前進座の団員たちが豊科に疎開していたが、「生活に困るので公演させてくれないか」と言ってきた。私は上司の軍人に相談した。
 「ま、いいだろう」と許可が出たので公演の運びとなった。演し物は真山青果の「元禄忠臣蔵」。非常に難しい芝居だったが、戦争中でみんな文化に飢えていたので、大いに喜んだ。主役は河原崎長十郎、他に中村翫右衛門、河原崎国太郎などが出演した。
 一日3回、3日間の公演だったが、工員たちは手のすいたものから見るという方法をとった。前進座の人たちも「これで何とか生活ができる」と大喜び。これを機に私は前進座の人たちと仲良くなったのである。
 昭和20年8月15日、その日私は製作所の関係者が東京と名古屋から来訪し、浅間温泉へ案内していた。お昼ころ、大事な放送があると聞いて宿でラジオを入れた。天皇陛下の声が聞こえたが、何を言っているのか分からなかった。ポツダム宣言…なんとか言っていたが、一緒に聞いていた周りの人たちが戦争は終わったんだ、これで安心だと言った。
 「そうか、終わったのか…」
 その夜私たちは浅間で酒を浴びるほど飲んだ。
 「今にアメリカからいっぱい人が来るぞ」
 だれかがつぶやいた。
 翌日、私は宮田製作所へ辞表を出した。かくして浪人だ。
 私たちは田沢に借りていた家も返して両親と住むことになった。
 「みんなで農業をやろうじゃないか」と父が言った。