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4 召集令状 病気で免れ、軍需工場に就職


雅子と結婚式
 母には商売柄、大勢の友人、知人がいた。そのうちの一人が東町の花岡足袋店の奥さんだ。
 「花岡さんちに、いい娘さんがいるけど会ってみないかね」と、母が推薦した。
 当時、私の家には買っていた別宅が東京の吉祥寺にあり、そこで見合いをすることになった。お互いの母親がついてきたのだが、今思えば過保護の鏡だ。花岡さんの娘は名を雅子といい、蟻ケ崎高校を出て東京の専門学校を卒業したばかりでかわいかった。
 東京から帰り、お付き合いをするかどうか考えているうちに、周りがどんどんと話を進めてあれよあれよという間に結婚した。昭和17年だった。
 新婚旅行は親から300円をもらい、奈良を皮切りに伊勢、姫路、赤穂へ気の向くまま計画もなく回った。そのころは初任給が100円前後という時代、300円は使いでがあった。途中、大阪の伯母宅に寄って50円の祝儀をもらったのでさらに足を延ばした。熱海、東京を経由して松本に帰ると、親たちは怒った。
 「一週間以上も費やして、いったいどこをふらついてきた」
 私はのん気に構えていたのでなぜ怒られているか分からなかった。その後母はどこかの温泉に行ったまましばらく帰って来なかった。おそらく母は私が嫁をもらい独立してホッとした半面、寂しかったに違いない。
 新居は縄手通りの元百貨店の裏の一角。父や母は百貨店の中に住んでおり、ふだんは行ったり来たりの生活で妻も両親に気を使ったのではないかと思う。
 いよいよ戦争も激しくなり、私にも召集令状が来た。ちょうどその時、肺炎で市営病院に入院していたので召集に応じられないことを妻を通して伝えた。時代が時代である。仮病を使って召集を拒否しているのではないかと思われることもイヤだったので、私は証明してもらうことにした。たまたま、妻の姉の夫が50連隊の軍医だったので、私はまた妻を通して頼んでもらった。その結果、召集は免れた。
 確かに私は病気だったが、召集を免れて本当によかったと思った。正直なところ私は軍隊に行きたくなかった。兄が戦死し、親の嘆きを見ていたので、同じ悲しみを両親にさせたくなかったのである。
 私と雅子の間に長女が誕生したのはそれから間もなくだった。戦火が松本にも伸びてくるという噂を信用し、親子三人で田沢の平瀬渕の蚕室を借りて住むことにした。両親は「縄手の百貨店の建物は自分たちで守りたい」と残った。
 県の繊維の価格査定委員の任期が終わるころ、中町の一志自転車店のご主人が就職の話を持ってきてくれた。
 「南松本の高宮にある宮田製作所で人を募集しているが、行くなら世話をしてあげよう」というのだ。
宮田製作所は、自転車メーカーで有名だったが、当時は軍需工場の一つだった。
 「そういうところへ行けば赤紙は来ないよ」と一志さんはさらに何気なく言った。私はその言葉が胸にどーんと響いた。兄のようにならなくてすむという思いが走ったのである。
 「行かせてもらいます」
 即座に返事をしたのであった。