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3 戦時中の非運 兄が戦死 出火の百貨店は廃業

奉公から帰って来たころ(右)

 松本50連隊に入営した兄は、昭和12年に支那駐屯地へ赴任。母あての手紙には生活の様子がこまめに記されてあった。
 「母上様
 初めての異国の正月、何となく淋しく思ひますが、後一年と思へば楽しみになります。母様も父様もお変わりなくお元気の様子、私も安心しております。徳次も一生懸命働いている由、嬉しく思ひます(略)
 ぼつぼつ三年兵が外出して支那の私娼街へ行く様子も有りますが、自分は決してしません。できるわけもありません。安心して下さい。でも酒は家に居た時分より一段と腕が上がりました。酔って居る間は何もかも忘れるので呑むようになりました。でも体は痛めぬように注意して居ます。…(略)」
 父と母は、兄が軍隊から帰ると店を継いでくれると楽しみにしていた。兄も戦地から店の心配をして手紙をよこし、店を継ぐつもりでいたようだった。
 だが、兄は赴任してまもなく日中戦争であえなく戦死、22歳の若き命は天津で散った。父と母の力の落としようは並大抵のものではなかった。特に母は兄の死の知らせを聞くと、地べたに転がって泣いた。その姿を私は忘れることができない。
 昭和16年、大東亜戦争が勃発。にわかに世の中が変わりはじめたが、藤本百貨店は変わりなく繁盛していた。もっとも、良いことは続かなかった。漏電による火事が発生したのは昭和17年、3階の大食堂を焼失した。放水によって1、2階の商品は水びたしとなり、大損害をこうむった。けが人もなくよかったが、この時を契機として商売もだんだんうまく行かなくなったのであった。
 世の中の流通機構も物資統一で配給制度となり、商品は繊維組合に拠出、店員の中の男子は戦争に行く者も出て、減っていった。
 父は商売をやめると本気で言いはじめた。母は「徳次がいるじゃないの」と父を説得したが、父はやめるといって聞かなかった。
 昭和18年閉店。
 父は農業をはじめた。祖父の残した田畑が沢村や岡の宮にあり、そこで農業をすると言い出したのである。父は一度言い出すとだれの意見も聞く人ではなかった。この時も自分の意思を通し、家族は父の意思に従った。
 藤本百貨店の建物は郵便局に貸し、電線や電球、郵便物などを保管する倉庫として使用していた。
 私は長野県から物資統制会の繊維部門の価格査定委員を委嘱され、県内の衣料店をまわることになった。価格の鑑定をするという仕事は大変だったが、衣料店をまわるととても大事にされ、ご馳走になることもしばしばであった。
 兄のいない私の家は灯が消えたようだった。これではいけない、どうすればいいのか周りの者は考えた。
 「そうだ、徳次に早く結婚してもらおう」
 私は査定委員で県内をあちこち回っていたが、だれかと恋愛するなんてとてもとても余裕がなかった。そこで見合いの話が持ち上がったのである。