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2 藤本百貨店 母から学んだ商い 力入れて


東京・神田へ奉公に行ったころ(左)
 羅紗屋での仕事は、布を切ったり測ったり、単純な作業が多かった。一カ月の給料3円、住み込みの食事付きとしては良い方だった。何といっても14歳、まだ遊びざかりで休日には芝居をよく見に行った。映画は松本でも見られると子供ながらに思ったので、浅草などの小屋へ足を運んだ。
 古川ロッパやエノケンの芝居を見て腹から笑ったが、神田までの帰り道の何とさびしかったことか。
 一年間の奉公の後、父親から帰ってもよいという許しが出て、私は踊るような心をようやく抑えて帰った。翌日から早速、藤本百貨店の手伝いを本格的にやることになった。
 父は「学校へ行くなら行かせてやる。松商を受けてみてはどうだ」と言ったが、私は高等小学校で十分と首を横に振った。これ以上、学校で勉強するなどとても耐えられないと思ったのである。
 当時の衣料品の店は、ほとんどが座売りといって座敷で物を売っていた。私の家では、ショーケースに商品を並べて売っていたところ
、 「シャレた売り方ね」とお客の間で評判になった。これは母の発案で始めたものだったが、「同じ物を売るのでも売り方によってよく売れるのよ」と、母は口癖のように言っていた。また母はお客への接し方もうまく、決してお客に不愉快な思いをさせることはなかった。
 「いいものが入ったよ。見ていかないかね」
 母の声を聞くと店に寄っていく人が多かった。そのような母に実質的な商売の方法を習ったように思う。
 仕入れの時も母について行った。東京や大阪、名古屋と回り、問屋と交渉する母。現金片手に「そこらへんにあるもの、みんなでいくら?」と良い物とそうでない物を一山にして買ってくるのだった。
 私は「なるほど、仕入れとはこういうものだ」と自然に覚えた。
 5歳上の兄も同じように母から教えられたらしく、私が松本に帰ったころは、すっかり商人になりきっていた。
 だが兄は1935(昭和10)年、松本50連隊へ入営することになった。私は兄のいない分、よく働かねばと妙に責任を感じ、今まで以上に店に出てお客と接するように努めた。
 世の中は、だんだん不景気の風が吹きはじめたが、私の家は「不景気、どこ吹く風」で繁盛した。店を閉めるところも出てきたが、幸いにしてそんな心配もなく、それどころか長野県内でも一、二位の売り上げとなるほどであった。
 店員は新潟や北信の農村の娘さんたちが住み込みで来ていた。多い時は30人以上、にぎやかだった。
 縄手通りは、毎日露天商がやって来ていろんなものが売られた。時には旅芸人もやってきて演劇や歌などが、四柱神社の広場で繰り広げられ、私はそれらを見に行くことが楽しみだった。とにかく商売家はお正月と言えば忙しく、お祭りと言えども休むことはなく、朝早くから夜遅くまで落ち着くひまがなかった。
 私は夜の遅いことは少しも構わなかったが、血圧が低かったので早朝からの仕事はさすがに辛かった。