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1 商売家に生まれ 学校さぼって“活動屋”通い


1926年ころの藤本百貨店。勢ぞろいした店員たちと中央に家族
(前列7人目が本人)
どこからかニワトリの押しつぶしたような声が聞こえてくる朝。
 コッコッコッ…コケコッコ−!
 ようやく東の空が白み始めたころ、松本の縄手通りの藤本百貨店の一日が始まる。時は昭和のはじめの夏である。
 番頭は店の前に水をまき、お手伝いは“かまど”に火を入れる。商売家の朝は気ぜわしいが、活気がある。朝御飯の用意ができると、父親がみんなを呼ぶ。
 「お−い、ご飯にするぞ。みんな来なさい」
 1929(昭和4)年、私は9歳になったばかりで田町小学校に通っていた。
 「学校の用意はできたかね。急ぎなさい」
 母かつよが急き立てる。
 「弁当は持ったか」
 父勝次も、私の姿を見ると追い立てた。
 女鳥羽川に沿って歩き始めるのだが、私は左に曲がるところを、ひょいと右に曲がる。およそ田町小学校とは反対の方角だ。行き先は映画館。当時は活動屋といっていた。
 深志公園の近くに「キネマパーク」という映画館があり、その日私はそこへ行った。ちょうど日本にトーキー映画が初輸入(昭和4年)されたころだ。松本には上土に「電気館」「演技座」、駅の近くに「平和館」などの映画館があった。
 私はなぜ映画が好きだったかはよくわからないが、学校で勉強することが嫌いだったこともある。
 学校に行かずに見る映画はとにかく格別だった。嵐寛寿郎、片岡千恵蔵、阪東妻三郎、大河内伝次郎など時代劇の俳優を思い出すが、テンポの早いものが心地よかった。
 映画を見て家に帰ると、父親は知っているのかどうか何も言わなかった。
 母親は一言、「さぼっちゃいけないよ」と言った。
 私は頭をかきながら家の奥に入り、着替えると店に出た。5歳年上の兄の正人は、すでに家業を手伝っていた。
 1920(大正9)年、私はこの藤本百貨店の主人である父と母の二男として誕生した。店は大正初期に父が創業、主として呉服や衣料品を売り、3階に大食堂を併設していた。商売家に生まれた宿命とでも言おうか、もの心ついた時から私は店を手伝っていた。母の仕入れにもついていったりした。@改行 母のかつよは上土の雑貨店の娘で商売がうまかった。絣や銘仙はどこのものがよいとよく言っていたので自然に私も覚えた。店の手伝いは、これまた学校より好きだった。
 高等小学校を卒業すると、私は東京へ丁稚奉公に行くことになった。神田の羅紗屋で「他人の飯を食べて来い」と父に言われたのである。
 学校は嫌いだったが、まさか丁稚に行かされるとは思わなかった。当時、東京と松本間は夜行で9時間以上かかり、一度上京すると簡単に帰ることはできなかった。
 仕事を終えたあと自室でおんおん泣いた。
 「父ちゃん元気だろうか。母ちゃんはどうしているだろうか」
 そればかり考えた。ただただ家が恋しくて泣いた。羅紗屋の主人はいい人で仕事をよく教えてくれた。