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6 松本商業学校へ 電車通学で疲れクラブ入れず


講堂を背に松商時代(右から二人目本人)
 昭和11年4月、私は松本商業学校へ進学した。兄は松本中学へ通っていたが、私はもともと商人の息子は商人の息子らしくと考えていたので、商業の道を選んだのだ。
 有明から松本まで電車で通学した。その当時、学校は現在の松南高校のところに在ったが、入学したその年の秋の終わりころ、東洋一の校舎が現在地に完成し引っ越した。木造の立派な校舎で私たちは毎日放課後、入念にふき掃除をさせられた。ラシャの服に編みあげの靴、帽子に白線が入り、有明の友人たちはあこがれを持って見てくれた。
 学内には矯風会という自治組織があり、先輩たちによる行儀やしつけがうるさく、特に映画館やカフェに行くことに対して目が光っていた。そのころ「愛染かつら」が大ヒットし、映画は見たしされど矯風会は怖しで、結局私は見なかった。中には要領よく矯風会の目をかすめて見た者もいたが、運悪く見つかって油を絞られた者もいた。
 私は信濃鉄道を利用して通学していたが、乗り遅れると発車直後であっても手を上げると止まって乗せてくれた。2両編成で、前の方は男子生徒、後方は女子生徒に分けられていた。ただ、電車通学は大変で体も疲れた。従って、クラブ活動などへ参加するほど時間も気持ちも余裕がなかった。
 5年になった年の野球部の活躍は目覚ましく、第2期黄金時代を迎えた感があった。春の甲子園大会では徳島商業を、第2回戦は東邦商業(その年の優勝校)に2対1で惜敗。夏の大会も近県に敵なく甲子園に出場した。またもや徳島商業と対戦してこれを破り、下関商業、日大三中を撃破、準決勝ではこの大会の優勝校海草中学と戦った。3対1で敗れはしたが、このベスト4に残った輝かしい記録は母校の名誉として語り継がれている。ちなみにこの時の徳島商業の投手は、戦後高校野球界の名監督とうたわれた池田高校の蔦監督であった。また、柔道部は県大会で優勝したり、競技部は諏訪湖一周マラソンに優勝し、800メートルリレーの県大会でも優勝したりした。
 昭和16年、松商を卒業した。39回生である。私たちはその後、三九会と称し毎月9日、市内での昼食会を30年以上も欠かさず開き続けている。この同級会の結束は固く、何かあれば一丸となって協力し合うのである。同級生の上條密門君が市会議員から県会議員に立候補した折には応援。だが、落選し、彼はこれに懲りて次期選挙には出ないと言う。同級生たちは彼のしりをたたいて出るように薦め、彼も立候補した。私たちは鉢巻きをして一丸となって協力、見事に当選したのだ。
 一方、私は松商卒業と同時に、燕山荘あっての縁でジャパンツーリストビューロー(JTB・日本交通公社)に就職した。JTBに勤めていた鈴木正彦さんが立教大学時代、燕山荘でアルバイトをしていたが、夜の団らんの中で「これからは観光ブームが来る」と熱っぽく語っていた。私は鈴木さんのJTBでの活躍にあこがれ、これからの観光時代に備えて鈴木さんの推薦を受けてJTBに就職したのだ。