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5 帝国ホテル傘下へ 建て直し中の本館雪で倒壊


燕山層建設現場の幹部たち(11年秋、前列中央赤沼千尋、右吉岡技師)
 父の建てたヒュッテ「燕の小屋」は、白塗りのハイカラな建物で、室内もしゃれていた。当時どこにもなかった2段ベッドを備え、コーヒーやカレーライスも用意、訪れる登山客も多かった。当時の芳名録には、島木赤彦、北村西望、阿部次郎、石井柏亭などの名が記されている。
 帝国ホテルの社長大倉喜七郎男爵が登ってきたのは昭和6年ころだった。お付きの人が十数人。最初は本名を記さず、どこのだれか分からなかった。「威張った男だが、小屋にとってはいい客筋のようだ」ぐらいしか父は思わなかった。下山する際に“祝儀”といって多額のチップを秘書が父に渡そうとした。
 「いわれのないお金を受け取るわけにはいきません」
 父は断った。以来、大倉さんは父を面白い男と思ったのかしばしば山小屋を訪れるようになった。
 ある夜、父は大倉さんを囲んで山小屋の将来のビジョンを話す機会があった。「もっと大勢の人が泊まれるような小屋を造りたい」と少々酒の勢いも手伝って大きな話をした。「では、一緒にやりましょう」と大倉さん。ポンと7万円出して下さり、大きな山小屋を建てることになった。当時大工の日当が50銭だったことを思うと、7万円はかなりの額だった。
 さらに、やはり山で知り合った三菱合資総理事で満鉄副総裁をやられた江口定條さんにも声を掛けた。これより株式会社「燕山荘」が“ヒョウタンから駒”のごとく設立され、帝国ホテルの傘下に入ったのである。会長は江口定條、社長は父赤沼千尋、平の重役に大倉喜七郎といったメンバーで出発。これを機会に父は帝国ホテルの一室を事務所とするようになり、私達兄弟もしばしば連れていってもらった。
 昭和9年、いよいよ180坪という大きな建物の建設が始まった。設計は上高地の帝国ホテルを設計した高橋設計事務所で監督は吉岡永吉技師。当時は不景気で職の無い人が多かったこともあり、80人ぐらいが山に登り、作業に携わった。本館の梁などは、一本担ぐのに15人もの人夫を要した。古い小屋を移動させて整地作業をしている最中、観測史上最強と言われた室戸台風に遭遇した。当時は台風情報などあるはずがなく、作業員たちはタケスズメやイワヒバリがさかんに鳴きながらハイマツの茂みに潜り込むのを見て察したのだ。
 「すごいのが来るぞ−」たまたま現場に運び終えたセメント50袋を梁につるし、重石にして待機した。間もなく襲来した台風は、小屋を幾度も持ち上げたり、なみなみと貯えた飲料水用のドラム缶30本程を揺り動かし、揚げ句の果てに谷底に残らず吹き飛ばしてしまった。風の猛威に仰天した工事関係者たちは、さらに5メートル深く掘り下げて整地した。180坪の本館の素建てを完了した時には、早くも新雪に見舞われてしまい、やむなく全員が下山。翌春、小屋番が見回りに登ったところ、素建ての本館は無残にも倒壊していたのである。片側斜面を5メートルも掘り下げたために小屋と斜面の角度が大きくなり、そこへ雪が詰まったため耐えられなくなったのだ。この教訓を生かし、太い材木や資材をふんだんに用いた本館は、急ピッチで進められた。